「間」にある橋について
2013.8|「Colors of KCUA 2013 BRIDGE-作家と素材の間-」カタログ
これまで、作品といえば、ある意味をうみだす意図のもとにつくりだされた、結果としての「もの」を指示してきた。絵画も彫刻も、そういう意味で作品であり、同時にひとつの完結した体系とされてきたのである。しかし、この人間と物質の対等性、その分かちがたい相互関係に眼を向けるなら、作品はそれのみで閉ざされた体系を構成し得ないといわなければならない。物質相互の関係、それと人間との関係の全体が、作品というべきものである。作品は人間にのみ属するものでもなければ、物質のみで自立しているわけでもない。まさに「人間と物質の間」のすべてを内包するのである。
(中原祐介「人間と物質」)※1
この文章は1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」のカタログに掲載された文章である。「60年代を通して現代美術で素材とならない物質は、ほとんど皆無とさえいえるようになった」※2その時代から40年あまり、作品に用いられる素材の範囲は今もなお拡大しているといってよい。しかし、これからもおそらく拡大していくであろう素材の多様性の中で、用いる素材の新しさについて語るのではなく、素材について語ることはできないのだろうか。
今回の展覧会で取り上げる作家はその素材というテーマに関わるものたちである。彼らの扱う素材は、いずれも長い美術の歴史の中で過去に登場してきたものである。油絵具、木、漆、土、紙など、その素材自体に新しさはない。それにも関わらず彼らの作品が、新たなイメージを獲得できているのはなぜか。それは、ありふれた素材、長く使われてきた素材を使いながらも、そこに自分だけの新たな使い方を発見したり、素材と別の要素を結びつけるたりすることで、素材の新たな一面を見せているからである。
このような彼らの制作姿勢は、作家と素材との間に、作家から素材への一方向ではない、複雑なプロセスを含んだものである。今回の展覧会では、このプロセスを作家と素材を繋ぐひとつの「橋」として捉えた。これは中原祐介が「人間と物質」展で、完成された「もの」の作品だけでなく、制作のプロセスや作品の周りにある空間、作品に関わる人など作品との「間」にあるものまで含めてひとつの作品であるとした姿勢に類するものである。
「橋」という言葉は、我々にいつも「こちら側」と「向こう側」の「間」を思わせる。「橋」を渡る際のイメージには、その「橋」を支える地面や、構造、つまり「橋」自体よりも、その「橋」から見える風景の方が強くつきまとう。例えば「橋」の間にある風景を楽しんだり、「一休咄」に登場する「このはし渡るべからず」のように、うまく機転をきかせてうまく橋を渡ったり、「橋」という言葉には、2点間を繋ぐその道を、どのように渡るかという問題が常に含まれている。この「橋」という言葉を作家と素材を結ぶものとして考えたときに、いくつかの事が浮かび上がってくる。
矢野洋輔は、主に木と漆を用いた作品を作る。木と漆、という関係は素地とその表面という関係性をもって古くから工芸の世界で用いられてきた。しかし、矢野の場合はその主眼が木工に置かれ、漆は描写の一部に用いられているに過ぎない。これは彼の「木と漆という二つの素材は、実は相性がよくないのかもしれない」という考えからである。このように矢野は素地と表面という関係を反転させ、二つの層が同じ表面に共存している奇妙な光景を生み出している。
池内美沙紀は、自分の思い入れのある漫画のコマを切り取りコラージュする。違う作者によって描かれた漫画の一コマが、物語の中から切り離され、池内の手による分解と再構成を経て、一物質としての「素材」に徹することになる。コラージュによって作られた絵画世界は、全体としては山水画のような風景であるが、細部にわずか残る漫画のイメージがその風景を味わい深いものにしている。
高木智子は綿布に油彩というオーソドックスな手法を用いて、食べ物や街の風景などの日常の風景を描き出してきた。彼女は、油絵具という画材の独特の明朗な塗膜、「にじみ」や「ぼかし」といった表現を作品に取り入れながら、見るものにモチーフとの遠近感をずらす独特のゆらぎを与える。今回の作品では、ジェッソやメディウムの下地を施した部分と、布に直接絵の具を染み込ませた部分の組み合わる実験を繰り返しながら、独自の絵画世界を探っている。
このように従来美術の中で用いられていた素材の再認識は、すでに使用方法の決まっていた素材の新たな側面を見つけ出し、素材に新たな命を与える。
森井綾乃は、和紙を日光、柿渋などで染め、作品をつくる。日常の風景から見つけ出した素材の特性を空間の中で見せることで、その周囲の環境が呼び込む風や光により、柿渋が塗られた和紙の幕が変化していく。柿渋で染められた和紙は、空間の中で紙としての性質から、神聖なイメージを纏ったものへと変化する。
大原美樹は、砂や土によって作られた空間の中に、陶でできたオブジェを配置してきた。用いられる土の種類によって、空間は印象を変え、空間を含めてひとつの作品として成立している。今回は、陶磁器を置くのではなく、土という素材と色の要素によって、作品から作品を取り巻く空間へと広がっていく、これは作者の思い描いた風景が、現実の風景として鑑賞者の実体験へと変化していくということである。
安東睦郎の作品は、漆でできた「もの」と空間、アクションなどの要素が関わりあっている。漆工専攻である自身の思う「漆」という素材への懐疑をストレートな形で作品にぶつけている。一般的な「漆」のイメージを意識的に利用しながらも、自身が「漆」という素材を用いる必然性を探っている。
竹本伊久美の作品は、陶磁器とそのまわりの人々、陶磁器を使う人を取り込むことによって成立している。《けむりのUMAみ》という作品では、大学の喫煙所にある灰皿に粘土を仕込み、20日間の間のタバコをすった痕跡をアーカイブする。このように竹本は、「用」という形で、常に他者との関係を築いてきた工芸の世界で、単に使う、使われるという関係ではない、人との関わりそのものを作品に取り込んでいる。
彼らの制作では、従来使われてきた素材に人や空間、メディアなどの要素を意識的に取り入れることによって、その素材の持つ良さを引き出したり、それだけでは見えなかったものを可視化させる。
このように作家と素材の間にある「橋」の架け方には、素材に寄り添ったり、逆に素材をコントロールしたりといった常套句では語り尽くせない、無数のアプローチが存在し得る。彼らは長い歴史の中で、受け継がれてきた素材、技法を、現代の自分が用いる必然性を探りながら、制作をしている。その形跡は、作家、作品、その制作プロセス、そのいずれかだけを見ても見えてこない。その3つの要素が繋がり、ひとつのものとして見えた時に、見える風景がある。本展覧会では、皆様がそのような、さまざまな二者択一の間にある「橋」から見える風景を楽しむことを強く期待する。
京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科 4年
本田耕人
※1『「人間と物質」展の射程: 日本初の本格的な国際展 (中原佑介美術批評選集)』現代企画室+BankART出版 2011年 pp.10-11
(初出『第10回日本国際美術展 Tokyo Biennale 1970 人間と物質』図録 毎日新聞社/日本国際美術振興会 1970年)
※2 同上 p.8